せなどすブログ

どうでもいいことしか書いてありません。

生まれて初めて物件見学をしてきた話

家を探しています。

23年間、のうのうと実家暮らしをしてきましたが、とうとう追い出されることになってしまいました。

立派な大人になる第一歩ですね。頑張ります。

実は、かれこれ1年くらい「もうすぐ一人暮らしするから~」なんて吹聴してまわってたんですが、やっと本格的に動き始めました。というか、いよいよほんとに実家に居づらくなってきました。

そんなわけで、生まれて初めての家探しをしているんですが、今日ついに物件見学をしてきました。

私、試着すると「やっぱこれいいです」って言い出しにくい方なんで、見に行ったら契約しなきゃいけないみたいな雰囲気になったらどうしようってちょっと不安でした。

実際、見学してその場で決めるっていうのが一般的みたいですね。覚悟はしていったんですが、今日見に行った物件は2つとも微妙な感じだったので、しっかり「ノー」と言ってやりましたよ。

後日また他の物件を見学させてもらうことにして、今日は帰宅しました。

見学自体は楽しかったです。部屋に入る瞬間のドキドキ感とか、新生活を妄想するワクワク感とか、味わえました。

 

正直、ネットで写真とか見られるし、わざわざ行くの面倒だなって思ってたんですけど、これは絶対行かなきゃだめですね。

条件だけ見たらかなりいい感じの物件があったんですが、入った瞬間「ここには住みたくない」って感じたので、そういう感覚的なものは大切にしなきゃいけないですよね。

 

あと、誰に探してもらうかって一番重要な気がしました。

私、明大前らへんに住みたいって希望出してたんですけど、担当してくれた人がすっごい東急沿線推しで、いつの間にか東急線沿いの物件しか出してくれなくなってました。まあいいんですけど。

具体的な条件はパソコンに打ち込んで検索するだけだから、多分誰がやっても同じだと思うんです。でも、感覚的なところってそうはいかないじゃないですか。

条件はいいんだけど、なんとなく違うんだよなって感じても「何が」違うのか「どう」違うのかってうまく伝えられない。

だから、もともと似通った感覚の人に選んでもらった方が希望通りの物件が見つかる気がします。

女の人は女の人に探してもらった方がいいのかもしれません。あと、年が近い人。

 

私は男の人に探してもらってるんですけどね。

次こそいい家が見つかりますように。

特攻から考えるべきは「戦争」や「平和」以前に国家のあり方の問題|特攻隊員遺書「日本の視点のみ」 記憶遺産候補ならず:朝日新聞デジタル

特攻隊員遺書「日本の視点のみ」 記憶遺産候補ならず:朝日新聞デジタル

鹿児島県の知覧特攻平和会館に収蔵されている、特攻隊員の遺書や日記、家族に宛てた手紙等333点が、ユネスコの世界記憶遺産の国内候補に申請されていたが、これは退けられた。

同委員会によると、「知覧からの手紙」が国内候補から漏れた理由は「日本からの視点のみが説明されている」こと、「特攻が沖縄戦の時期以外も行われていたことから、『唯一性』『完全性』の説明が不十分」なこと等。

特攻で出撃する隊員は、当日の朝に発表されることが多かったという。ついに自分の番が来たときの恐怖や絶望は計り知れない。しかも、そうやって死んでいった若者たちは、確かにそこに存在していて、私と同じように息をしていた生身の人間なんだ。映画やドラマの登場人物ではない。

当たり前だけど、忘れがちなそのことを実感させられると、胸がどうしようもなく苦しくなる。それこそ、彼らが遺した言葉に触れたときなんて、なんともいえない悲しみや悔しさが湧き上がってきて辛い。

同じ歴史を繰り返さないために、そういった遺産を守り、後世に伝えていくことは大切なことだと思う。実際、授業を何時間受けるよりも、1枚の遺書を読んだほうがはるかに学ぶことは多いんじゃないか。

だけど、それは日本国内の話で世界にアピールすることではない気がする。だから個人的には、今回「知覧の手紙」が候補から漏れたのは致し方ないことのように思えます。

なぜなら、この「特攻」というのは、当時の日本政府が半ばやっつけで強制したもので、諸外国には(極端な言い方をすれば)なんら関係のないことだからです。

特攻で亡くなった方々は、戦争のせいで死んだというより、国家に殺されたと言った方が適切だと思う。

もちろん、一人一人は愛する家族や国のために、誇りを持って死んでいったのだろうし、世界中の人に彼らの思いに触れてもらえば「特攻隊員はテロリスト」というような勘違いもなくなるはず。(現在でもかなり少なくなっていると思うけど。)

ただ、「特攻で大勢の若者が命を落としたのは戦争のせいだ」「だから戦争はやめるべきだ」というのはやっぱり違和感がある。

特攻というものから考えるべきなのは、戦争そのものというよりも、軍国主義や、国家のあり方の問題なのではないだろうか。

 

インフラに市場原理を持ち込むことのデメリット|家庭向け電力、16年から自由化 サービス競争本格化:朝日新聞デジタル

家庭向け電力、16年から自由化 サービス競争本格化:朝日新聞デジタル

東京電力など、電力10社が独占してきた「電力小売り」が2016年から自由化する。家庭や個人は自由に電力会社を選ぶことができるようになり、サービスや価格の競争の激化で、電気料金が安くなる可能性も期待できる。

たしかに、時間帯によって電気代を変えるプランとか、携帯料金やガス代とセットでお得な割引プランなんて、いろんな選択肢が増えるのはなかなか面白そうだ。

個人的に、家電メーカーとか家電量販店が参入して、「この洗濯機を使うと電気代がお得に」「テレビと電気料金のセット割引プラン」なんてことが実現したらいいんじゃないかと思う。

もちろん、色々なところで言われているように、電力の自由化によって、価格競争やサービスの充実が起こるのは十分予測できる。

ただインフラに市場原理を持ち込むのは、なかなか一筋縄では行かない気もする。独占状態だったからこそ、国による規制や審査が効果的に行えたという側面もあるのではないだろうか。

電力は私たちの生活に必要不可欠なエネルギーだから、もちろん需要もかなり大きい。シンプルに考えると、需要が大きいものの価格は高くなるから、国による価格の規制や審査がなくなってしまうと、供給する側が価格を吊り上げることもできるのではないか。

しかも、そこに上に書いたような付加価値が付けられるとなると、価格競争ってそんなに激しくならないんじゃないかなと思ったり。

現状では、「あまりにも電気代が高すぎて払えないから、電気を使わない生活を強いられてる」っていうギリギリの状態にある家庭や個人ってほとんどいない。

独占市場だからこそ、公共事業に近いというか、公共事業と同等の価格やサービスを提供できるのかもしれないなと。

それから、電力会社が余分な設備を持たなくなるので、停電が起こりやすくなるらしい。

なんだか、市場原理を持ち込むことで、格差社会に拍車をかける結果になりそうな気がしてならない。

なんでもかんでも、自由にすればいいってもんでもなさそうだ。

 

【参考】

ソフトバンク電力小売参入、電力自由化のメリット・デメリットは? | THE PAGE(ザ・ページ)

視点・論点 「電力自由化のリスク」 | 視点・論点 | 解説委員室:NHK

「知る権利」は国民同士でも主張できるものなのか?「知られない権利」はどうなるの?|精子提供で生まれた子「提供者知る権利を」 - ライブドアニュース

精子提供で生まれた子「提供者知る権利を」 - ライブドアニュース

精子提供で生まれた子供が、自分の生物学上の父親が誰か知ることができるよう、法整備を進めてほしいと訴えているという話。

日本には、この問題についての関連法が全く存在しておらず、子供の「出自を知る権利」が守られていないという。

正直、実際に同じ状況に立たされてみないと「自分のルーツがわからない」ということの不安や恐怖は計り知れないんだろうけど、この議論にはいささか違和感を感じます。

もちろん、精子提供で生まれた子供に「出自を知る権利」があるというのはもっともな話です。

単に「知りたい」という感情もわかるし、血のつながりを重視する倫理観のせいもあるだろうけど、何より自分の体ついての情報が欠如しているというのはハンデだと思う。

個人的には、感情論や倫理観を持ち出した議論はあまり好きじゃないんだけど、たとえば体質とか、どういう病気にかかりやすいかとか、家系や遺伝による影響が大きい情報について知ることができないのは問題。

ただ、精子提供で生まれた子供に「知る権利」があるのだとしたら、精子提供者(ドナー)の方には「知られない権利」というものがある。

そもそもこの「知る権利」って、国民と国家の間で語られるものであって、国民同士の問題にはそぐわない気がする。

「知る権利」っていう言葉だけが一人歩きしてる感じ。

この、精子提供をめぐる問題に関してもそれはやっぱり当事者間の問題であって、精子提供者の匿名性を国家が禁じるようなことがあってはいけないのではないかと思います。

精子提供によって生まれた子供、精子を提供したドナー、どちらの権利も最大限守るためにできるのは、

 

    1. 精子提供を受ける夫婦と精子提供者の間で、子供に実の父親の身元を知らせるかどうか事前に決めておく。
    2. 知らせないことになったら、①どこまでの情報(年齢や職業、体質のことなど)を伝えていいのか②子供が精子提供について知ってしまった場合、どういう対応を取るのかも決めておく。

 

というように、事前にしっかり話し合って合意しておきなさいよって法律で決めることくらいなのかなと。

なにより、法整備が進めば、いまだタブー視されている精子提供による出産に対する偏見とか嫌悪感をある程度払拭できるんじゃないかと思います。

 

異質だからといって排除していいわけではない|問題児童らを隔離、「特別教室」で指導へ 大阪市教委案:朝日新聞デジタル

問題児童らを隔離、「特別教室」で指導へ 大阪市教委案:朝日新聞デジタル

はじめは、不良漫画やドラマに出てくる、いわゆる「落ちこぼれ学級」みたいなものを想像して、なんか現実離れした施策だなと思いました。

一定レベルを超える悪質な問題行動を繰り返す児童・生徒を在籍する市立学校から引き離し、1カ所に集めて指導する「特別教室」を新たに設ける。 

なるほど。つまり、隔離するってことになるのかな。そういう言い方をすると心象はよくないけど、もしかしたら問題児だとされている生徒にとっては悪いことではないのかもしれない。

いわゆる問題児童って、つまり周囲にとっては「異質な存在」だから、「個性」や「キャラクター」で許される範囲を超えてしまうと、学校っていう社会の中では抑圧されてしまうもの。

でも人は(特に思春期のときは)押さえつけられたら大抵の場合反抗したくなる。そしてまた非行に走るという悪循環があるのではないかと思う。だから、その負のサイクルから抜け出すために、環境を変えてみるというのはアリかもしれない。

私の大好きな『プレシャス』という映画に、「普通の」ハイスクールでは疎外感に打ちのめされていた主人公が、同じように周囲に馴染めなかった若者たちが集う「特別教室」に通うことで、人生に希望を見出すという描写があります。

もちろん映画と現実は違うし、置かれている状況もまったく異なるので、だからこの施策も必ずしもうまくいくとは思いません。

ただ、周囲と違うものを無理やり「みんなと同じ」にしようとするよりは、よっぽど健全な気がするのも事実です。

 特別教室には、問題行動の対応に豊富な経験や心理学など専門的知識がある教職員らを配置。社会や学校でのルールの大切さを教え、他者を思いやる態度を育てることに重点を置く。

 これに関しては、心理学の専門知識がどこまで役に立つかはわからないし、学校の道徳の時間と同じアプローチしかできないなら、あんまり意味がないように思います。

ただ、「自分のことを知らない人と出会う」っていうのは、自分を見つめ直す機会にもなっていいのかなと。

 

ただちょっと思うのは、この施策は排除される問題児より、その周りの生徒への影響が大きいのではないかということ。「異質なもの」は排除されていいんだとインプットされてしまいそうだから。

しかもそれを公的に行っていいときたら、勘違いしてしまう生徒もいるんじゃないのかなと。

なにかと話題の大阪だし、かなり議論になりそうな問題ですね。やってみる価値はあるかもしれないけど、最善策とは言えない気がします。