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特攻から考えるべきは「戦争」や「平和」以前に国家のあり方の問題|特攻隊員遺書「日本の視点のみ」 記憶遺産候補ならず:朝日新聞デジタル

特攻隊員遺書「日本の視点のみ」 記憶遺産候補ならず:朝日新聞デジタル

鹿児島県の知覧特攻平和会館に収蔵されている、特攻隊員の遺書や日記、家族に宛てた手紙等333点が、ユネスコの世界記憶遺産の国内候補に申請されていたが、これは退けられた。

同委員会によると、「知覧からの手紙」が国内候補から漏れた理由は「日本からの視点のみが説明されている」こと、「特攻が沖縄戦の時期以外も行われていたことから、『唯一性』『完全性』の説明が不十分」なこと等。

特攻で出撃する隊員は、当日の朝に発表されることが多かったという。ついに自分の番が来たときの恐怖や絶望は計り知れない。しかも、そうやって死んでいった若者たちは、確かにそこに存在していて、私と同じように息をしていた生身の人間なんだ。映画やドラマの登場人物ではない。

当たり前だけど、忘れがちなそのことを実感させられると、胸がどうしようもなく苦しくなる。それこそ、彼らが遺した言葉に触れたときなんて、なんともいえない悲しみや悔しさが湧き上がってきて辛い。

同じ歴史を繰り返さないために、そういった遺産を守り、後世に伝えていくことは大切なことだと思う。実際、授業を何時間受けるよりも、1枚の遺書を読んだほうがはるかに学ぶことは多いんじゃないか。

だけど、それは日本国内の話で世界にアピールすることではない気がする。だから個人的には、今回「知覧の手紙」が候補から漏れたのは致し方ないことのように思えます。

なぜなら、この「特攻」というのは、当時の日本政府が半ばやっつけで強制したもので、諸外国には(極端な言い方をすれば)なんら関係のないことだからです。

特攻で亡くなった方々は、戦争のせいで死んだというより、国家に殺されたと言った方が適切だと思う。

もちろん、一人一人は愛する家族や国のために、誇りを持って死んでいったのだろうし、世界中の人に彼らの思いに触れてもらえば「特攻隊員はテロリスト」というような勘違いもなくなるはず。(現在でもかなり少なくなっていると思うけど。)

ただ、「特攻で大勢の若者が命を落としたのは戦争のせいだ」「だから戦争はやめるべきだ」というのはやっぱり違和感がある。

特攻というものから考えるべきなのは、戦争そのものというよりも、軍国主義や、国家のあり方の問題なのではないだろうか。