大人の片思いの作法
片思いをしている。
ついこの間まで「恋する細胞が死滅した」とかなんとかほざいてたのに、目の前にめっちゃタイプの男性が現れた途端にこれである。人間とは現金なものだ。
恋をしていることは否応なしに素晴らしい。とはいえ、すべてが順風満帆というわけではない。なにせ、大人になってから片思いをするのなんて初めてなのだ。てんで作法がわからない。
酒に酔うと思ったことがすぐに口から出るので、出会ったその日からずっと「好きだ」「好きだ」と言い続けている。でも、まったくもって響いていない。から回って「どうしたら好きになってくれるのか」と帳本人を問い詰める始末。
確実に引かれているし、困惑させていることはわかっているのに、気持ちばかりが先走ってどうにも止まらない。なんか童貞になった気分。なったことないけど。
ていうか、女子高生ならまだしも、27歳のいい大人がこの体たらくって大丈夫なのだろうか。冷静になって振り返ってみると、相手の迷惑を顧みずに自分の気持ちを押し付けているだけに過ぎないのではないか。
でもだって、わかんないんだもん。大人の片思いってどうやるの? 今日も明日も仕事仕事で、次いつ会えるかも決まってないのに、ていうかむしろ会ってくれるかも定かじゃないのに、いまこの瞬間好きって気持ちを伝えないでどうする! 修造ならたぶんそう言ってくれると思う。
ただ、急ぎすぎてこれじゃ付き合えるもんも付き合えないってことになりそうだから「せめてこれくらいの段取りは踏みましょね〜」みたいな、大人の片思いの作法、教えてほしい。
出会ったその日に好きとか言ってる時点で段取りもなにもあったもんじゃないけど。次に会ったときから、何事もなかったかのように手順を踏んでやってやろう。
でも「今日からちょっとずつ段取っていきますんで!」とか、絶対言っちゃう。はあー、無理。
次の一手が見えてこない。撃沈。
君の髪型は。
ラスト25。バースデー・イブ。明日、26歳になってしまう。もうすぐ誕生日だっていうのに、口内環境が最悪だ。唇にも舌にもド級の口内炎ができていて、とても痛い。ついてねーなマジで。
そんなことより、26歳になる前にどうしても言っておきたいのは、『君の名は。』の女の子の髪型どうなってんのってことだ。
映画の序盤、主人公の女の子が朝の支度をしているシーン。彼女は手慣れた手つきで三つ編みをしたあと、ふたつの毛束をうしろでまとめ、組紐っていう和風のリボンみたいなものを使って頭の高い位置に留めていた。
このとき目を疑ったのは、けっして細くはない三つ編みの毛束を、あまりにも軽々と留めていたから。「ウソだ……」と思った。
そもそも、けっこう量のある髪の毛を紐で留めようなんて正気の沙汰じゃない。しかも、あのシーンをみるに、紐以外のアイテムはまったく使っていないのだ。
絶対、重力に負ける。
しかも、三つ編みの毛束を高い位置で固定するためには、地肌と表面の髪の間に紐を通さなければならない。それなのに、そんな仕草はまったく描写されていなかった。
百歩譲ってそのへんはカットされてたってことにして、なんとかうまく留められたとしても、走ったら一発アウトだと思う。体育の授業なんて出られない。
冒頭のシーンからずっと、あの髪の毛が一体どうやって留まっているのかばかりを考えてまったくもって話に集中できなかった。
そんななかふと、リボンがめっちゃ形状記憶してんなってことに気付いて、これは針金が入ってる可能性があるなと。それなら、この謎の髪型に説明がつく。
正直、結んでるときはぜんぜん針金感なかったけど、そこは目を瞑ろう。ていうか、針金が入ってなきゃおかしい。だって結んだ紐の端っこが重力に逆らって上向いてるもん。
そうやって納得して、ようやく話に集中できた。
と、思ったら大どんでん返しだよ。
女の子が男の子に会いに行って、偶然電車のなかで出会うシーン。
紐をね、スーッと。ほんとにスーッとほどいたの。しかもそれをふわって、渡しちゃって。
針金入ってねーじゃん。
謎は深まるばかりだよ。
ただそのあとすぐ、髪の毛をばっさり切ってくれたのでなんとか話に意識を集中させることができたけど。
映画が終わってすぐググったら「三葉の髪型のつくり方♡」みたいな記事とか動画とか見つけたけど、ピンで留めるとかハーフアップにしてから巻きつけるとか、いや違うじゃん、そんな風にやってなかったじゃんってやつばっかりだった。
それでふと、舞台やってたときに言われた言葉を思い出した。「嘘をやってるんだから嘘を見せるな」っていう。つまり、やってることは全部嘘っぱちだからこそ、嘘の世界をいかに真実のように錯覚させるかっていうことがすべてで。だから、舞台上の装置はなるべく本物を置くか、本物そっくりに作るかする。ほころびがあると、そこから現実に引き戻されるから。
ああ、こういうことか、とすごく腑に落ちた。
いや、アニメだからって言われたらそれで終わりなんだけど、プリキュア観に行ったわけじゃないし。四谷とか信濃町とか現実にある場所が舞台になってて、わーそのまま!って描き方してるんだから、組紐って超重要アイテムこそリアルに描いた方が……よかったんじゃ……ない?
総じて「あの髪型なんやねん」って感想しか持てなかったんだけど(あ、でも画はすっごいキレイだった)なんか、めちゃくちゃ、ヒットしているらしくて。世の中ってわかんねーな。
言いたいこと言えてすっきりしたから心機一転、晴れ晴れした気持ちで26歳を迎えられそう。
わーい!
失恋したので髪を切りました
髪を切った。そこそこの長さ。「ショートボブ」と呼ばれる髪型になった。
あまり変わらないといえば変わらないけれど、ここ2、3年ずっと「ミディアムボブ」くらいの長さを保つようにしていたから自分としては新鮮だ。
本当はずっと短い髪にしたかった。でも、彼が好きなのは昔からロングヘアだった。
高校生のころは「彼がそっちの方がいいと言うから」という理由だけで、服装や髪型を変えられた。それを躊躇するくらいには、私も大人になっていたということだろう。ショートにしたい自分と、ロングが好きな彼、間をとってミディアムにした。そういう、妥協のうえに成り立つ関係だった。
一生一緒にいるのだと本気で思っていたから、ふたりで生きていけるように「間を取って決める」ことが当たり前になっていた。クッションひとつにしたって、私はピンクがよくて、彼は黒がいい、じゃあふたりが納得できる白を買おう。一緒に住みたい私と、実家にいたい彼、じゃあ週に2、3日は来られるように、私が彼の会社の近くに住もう。
いま、自分の周りにあるもの、環境、すべて、それが私の「好き」だったのか彼の「好き」だったのか、もうよくわからない。
10年間も同じ人のことを好きでいると、そのこと自体が自分のアイデンティティみたいになってくる。
別れて3か月、未練はたぶんもうない。でも、長い間ずっと「彼を好きな自分」でいたので、「彼を好きじゃない自分」は何かが足りないような気がしてしまう。好きって気持ちにもう中身はなくて、サビみたいにこびりついてるだけなのに。それがなくなってしまうと、私を構成する原子だか分子だかの半分くらいが消えてしまう気がする。
半分はさすがに言いすぎかもしれない。でも、25年しか生きてないのにそのうち10年も好きだったんだから、3分の1くらいには相当すると思う、たぶん。
だらしない私と神経質な彼。毎日は無理だから2日に1回は掃除をしよう、洗濯物も洗い物もなるべくためないようにしよう。かわりに、たまには料理が得意な彼にご飯を作ってもらおう。
彼と別れてから、私は掃除も洗濯も洗い物もほとんどやらなくなった。さすがにまずいと思うまで放っておく。キッチンはまったく使っていない。
妥協して伸ばしていた髪を切って、部屋が狭くなるからと彼が嫌がっていたソファを買って、結婚資金として貯めていた(本当に微々たる)お金を使い切って……。
久しぶりに自分本位な生き方ができて、すごく楽だ。でも、どんどん汚れていく部屋や、次から次へと増えていく服や靴を見ていると、ああ自分はひとりになってしまったんだと実感してちょっとセンチメンタルになる。
だけど、たとえひとりきりでも自分らしい方がいい。ひとつずつ、私と彼の「間を取った好き」じゃなくて、「私だけの好き」を取り戻していこう。
そのために髪を切った。ややちびまる子ちゃんみたいだけど、これはこれで気に入っている。
腐海とともに生きる
ちょっと家事をサボると家中が腐海の毒に侵される。シンクのなか、風呂場の排水口、ベッドの下……。正直、家事なんかひとつもしたくないので、ぼくの家は腐海だらけだ。
でも、ベッドの上(風の谷)さえ生きていれば大丈夫、と思っていたのだけれど、シーツをはずすとね、マットレスという腐海の底が見えちゃうんだよね。
先月買った新しいソファだけが救い。洗濯物で埋まってるけど。
そういえば、今の家に越してきてもうすぐ1年だ。前の家もそうだったけれど、家をキレイに保てるのは1年が限界。あとは腐海にしずむのを待つだけ。引っ越しが決まってから、前の家はいっさい片付けも掃除もしなかったので、最後の方はひどい有様だったな……。まあ、めちゃくちゃ忙しくてほぼ家に帰ってなかったせいもあるけれど。
これまでは、もう腐海にしずむしかない、と思ったら諦めて新天地を探していた。でも、もはや腐海とともに生きるという選択をしてもいいのかもしれない。
たぶん腐海とともに生きられる度だったら私とナウシカは互角だし、もはや私がナウシカだという可能性すらある。
— 近藤世菜 (@sena_kondo) 2016年9月5日
ずっと家をキレイに保つためには、一度死んで生まれ変わるしかないので、僕は腐海と共存する道を選ぼう。
……と思ったけど、さすがに健康で文化的な最低限度の生活ができなくなりそうなので、とりあえず1回ダスキン呼ぼうと思う。
文章を書いて、飯を食うということ
私は、文章を書いて飯を食っている。
漠然と描いてきた将来の夢のなかのひとつが、なんとなく叶った感じだ。
私はこの仕事が好きだし、たぶん天職だと思う。なぜなら、なまけ者で面倒くさがりな私が、とくに努力せずに他人より優れた結果を出せるのは、文章を書くことだけだから。
なんだか向上心がないように感じるかもしれないけど、けっしてそういうわけではない。
やっぱり仕事として選ぶなら、頑張らなくても、たとえ手を抜いても、必ず80点は取れるっていうものにした方がいいと思う。
それが自分のためでも、周りのためでもあるから。
そんなことを考えているなかで最近気付いたのが、文章を書いて飯を食うのって、思っていたよりぜんぜん"普通"のことだってこと。
ぜんぜん詩的でもないし、情緒的でもない。淡々と、そして粛々とこなす感じ。でも仕事ってえてしてそういうものだ。
だから、文章を書くことが自己表現の唯一の手段になっている人は、文章を書いて飯を食おうとは思わない方がいいと思う。よっぽどの有名人か恐ろしく文才がないかぎり、自己表現のイタい文章で金はとれない。
自己表現の文章は、ブログやらSNSやらで垂れ流しておけばいいのであって、どこかからお金もらって掲載するようなものじゃない。もちろん、エッセイみたいにむしろそれを書いてほしい場合もあるけど、そういうときは、ちゃんとそう言って発注する。
たいていの人は、自意識の有り無しを使い分けできると思うのだけど、たまに頼んでもないのに、自意識でベタベタの文章を書いてくる人がいる。
そんなときは、容赦なく真っ赤にして戻すか、ほぼ書き直しってくらい校正入れる。何度心のなかで「ブログじゃないんだけどな」と思ったことか。
私もまだペーペーだから、偉そうに何言ってんだって感じだけど、文章を書いて飯を食いたいって思ってるなら、いったん自意識を手放して書いてみるべきだと思う。
もちろん、自己表現の文章だけで食っていける人もいる。でも、何度も言うけど、そういう人は、ずば抜けた文才や表現力があるか、もともと有名人かどっちかだ。
だから、文章を書いて飯を食いたいならまず、自意識をとっぱらって書いてみるべきだ。編集者やライターになりたいっていう人はとくに。
紙でもWebでも、メディアに載せる文章は、ちゃんと読者の方を向いていなければならない。どんなに素晴らしい文章でも、読まれなければ金にはならないから。自意識は、スパイス的に"きかせる"ために使えばいいのだ。
自意識でベタベタの文章ばっかり書いてると、絶対そこを見失う。ただの自己満足の文章では、ビジネスはできない。ビジネスとして金を取れない限り、文章を書いて飯を食うのは無理だ。
お金なんかいらない、読んでくれる人がいなくてもいい、自分が書きたいものだけ書きたい、そういう考え方があってもいいと思う。
でも金がとれなきゃ、プロにはなれない。結局それは、どこまでいっても単なる趣味でしかない。
私は、ものを書くプロでいたいから、今日も明日も書き続ける。
自意識を手放して、淡々と、粛々と。
ブログの語尾って迷う
ブログ書くときいつも迷うのが、「です・ます」調で書くか、「だ・である」調で書くかってこと。
仕事で書くのは、だいたい「です・ます」調だから、「だ・である」調で書いてみようと思って、ここのところそうしてたんだけど、なんかやっぱりキャラじゃないなって。
堅苦しくて「書きづらい」ってなったので、「です・ます」調にしようかと。でも、別に誰かに向けて書いてるわけでもないのになんかアホらしい気がするんだよな。
それで、誰かが「話すように書くのが大切」みたいなこと言ってた(気がする)のを思い出して、いっそのこと、(ほぼ)そのまま話し言葉で書いちゃえばいいかって結論に至ったよ。
仕事ではちゃんとした言葉遣いで書いてるし、ブログくらい別にいいよな。インテリ風に言うと「言文一致」ってやつよね。(たぶん)
私は「正しい日本語」を使うことにこだわりがあって、「ら抜き言葉」とかありえないし、「たり」を繰り返さないなんて言語道断!と思っているんだけど、最近「正しい」ことがすべてではない気がしてきている。
読むという行為は、文字そのものを画像のように処理するのではなくて、頭のなかで声に出すこと。それなら、話すように読めることはとても重要なのではないかと思う。その方がきっと読みやすいし、言いたいことがちゃんと伝わるかもしれない。
まあ「なのである」とか、ちょっと笑えるもんね。ブログなんて大したこと書かないんだから「なんだよねー」くらいのテンションでいいっしょ。
あと何より、気負わずに書けそう。仕事が編集者兼ライターです、なんて公言しているから、実はいつもビクビクしながらブログ書いてる。文法間違ってないかな、正しい解釈してるかなって、ブログ書くのに国語辞典いちいち確認するの、だいぶ疲れる。
ということで、これからは「話すように書く」ことを意識して、ブログ書こうかなーと思う。
それで更新数、増やせたらいい、な。
ウーパールーパーの別名、知ってる?
かつて、通っていた大学の王様を決める大会で、ウーパールーパーを食べるという競技があった。(自分でも何を言ってるのかよくわからない)
ブームが過ぎ去ってから生まれた私にとって、ずっと曖昧だったウーパールーパーのイメージが、「ゲテモノ、キワモノ、イロモノ」のジャンルに割り振られた瞬間だった。
それからウーパールーパーと接点をもつ機会はなかったから、ここ最近までずっとそんな印象のままだった。
でも、もしいま「一番好きな両生類は?」と聞かれたら、間違いなくウーパールーパーと答える。それは、『よしふみとからあげ 』という超絶キュートなコミックに出会ったからだ。
社蓄の飼い主としゃべるウーパールーパーの物語
『よしふみとからあげ』の主な登場人物(生物)は、月の残業時間が100時間を超え、タイムカードが真っ黒な、社蓄のなかの社蓄よしふみと、よしふみの元嫁がスーパーの食品売り場で見つけたウーパールーパーのからあげ。
もともとは、ただのウーパールーパーだったからあげだが、よしふみの嫁が離婚届を置いて家を出て行ったその日、どういうわけか人間の言葉をしゃべれるようになる。やけ酒をしているよしふみに「ドンマイ。元気出せよ、よしふみ」という言葉をかけたのだ。
出典:関口かんこ『よしふみとからあげ』(講談社)
『よしふみとからあげ』は、飼い主のことを思いやっているのか、小馬鹿にしているのかわからない、しゃべるウーパールーパーと、嫁に逃げられた社蓄の飼い主よしふみのちょっとシュールでハートフルな日常系ストーリーである。
憎めないからあげと、振り回されるよしふみ
『よしふみとからあげ』がおもしろいのは、からあげとよしふみの間に明らかな上下関係があること。立場が上なのは、ウーパールーパーのからあげ。人間のよしふみは、一方的に振り回されては不運な状況に陥っている。
ウーパールーパーは非力な生物だが、からあげはその達者な口でよしふみを"口撃"したり、クレジットカードや保険証を人質ならぬ"物質"にして脅したりすることで、よしふみをパシリにしているのだ。
出典:関口かんこ『よしふみとからあげ』(講談社)
わがままで生意気なからあげは、よしふみの人の良さにつけこむ性悪女ならぬ性悪メス(からあげはメス)なんだけど、どこか憎めない。ゆるいしゃべり方や小さい身体が可愛らしいし、結果的に藪蛇になるとはいえ、大切なATMであるよしふみのために、健気な行動をする姿がいじらしいからだ。
個人的に一番萌えたのは、よしふみが自分のことを家族と呼んだことに対して、「フフフ」とにやけていたシーン。とてもかわいい。
出典:関口かんこ『よしふみとからあげ』(講談社)
それから、ブラックジョークがふんだんに取り入れられているところも好き。からあげが自分を非常食と称したり、アンパンマンに憧れて子どもに自分の身体を食べさせようとしたり……。からあげっていう名前とあいまって、シュールさが増す。
最新巻(3巻)のなかではとくに、ポッキーゲームをしようとして別のウーパールーパーを共喰いするシーンや、『ブラック・ジャック』のパロディ(「おこがましいと思わんかね」のやつ)が印象に残っている。
実は、ウーパールーパーのほかにも、いろいろな生物が登場するんだけど、だいたい死ぬ。カナブンとスズメの退場の早さには笑った。
クスッと笑えて暇つぶしにちょうどいい
『よしふみとからあげ』は、1話の長さがだいたい2ページくらいで、テンポよく話が進んでサクサク読める作品。爆笑することはないんだけど、ついクスッとかニヤッとかしてしまう。いい意味で暇つぶしにちょうどいいし、公式サイトに書いてあったように、寝転がって読みたい感じの脱力系漫画だ。
個人的に、いま1番好きな漫画かも。からあげがギョロ目キャラっていうのもポイント高い。
ちなみに、ウーパールーパーの別名はメキシコサラマンダー。あとアホロートルとも言うらしい、よ。