残業は正義じゃない
ある記事のタイトルに「時短社員と残業してバリバリ働く社員」という記述があった。
そういう意図がないことは百も承知だけれど、この書き方では「時短社員」と「残業してバリバリ働く社員」が比較対象になっているように感じる。すると「残業して働く社員はバリバリ働いてる」けど「残業しない時短社員はバリバリ働いていない」と言っているように感じてしまうのは私だけ?
日本の「働き方」に関する問題は、「残業してる=仕事頑張ってる=素晴らしい」っていう残業神話が崩壊しない限りなくならない気がする。たとえば、当該記事で話題になっていた時短制度の基本的な目的は、育児をしている人でも働きやすいように、働いていても育児に支障が出ないようにってことだと思う。労働力の確保も少子化の抑制もできて一石二鳥だね。
もちろん、それはそれで機能しているのだろうけど、個人的にはもっと踏み込んで解決すべき問題がある気がする。時短制度使用して「16時に帰っていいよ。会社が許可してるよ」って人のなかで16時ぴったりに帰る人ってあんまりいないんじゃないかなあ。もちろん5分、10分の延長は許容範囲だけれど、なんだかんだ30分くらい残業してる人って多いんじゃないの? きっと時短社員もその周りの人も「みんなは遅くまで残業してるのに、早く帰るの申し訳ないな」とか「僕たち私たちは毎日残業してるのに、うらやましいな」とかって多少なりとも感じてしまうと思う。
そんな小さな「ひずみ」みたいなものが積もり積もって、社内の人間関係が悪くなったり、耐えかねて辞めてしまう人が出たり……そういう問題が発生するのでは?
でも、それって絶対間違ってると思う。そもそも、多くの社員が残業しなきゃまわらない会社なんて、労働力が極端に少ない場合以外、作業効率が悪いとか、マネジメントが機能してないとか、なにかしら問題があるはず。
冒頭の記事の話題に戻ると、だからこそ「残業して働く社員はバリバリ働いてる」けど「残業しない時短社員はバリバリ働いていない」って見えちゃう表現はやめるべきだと思う。労働時間至上主義、反対。
時短やら、フレックスやらよりむしろ、 残業は全面禁止!にした方が、すべての人が働きやすい社会になると思うんだけどなあ。
それにしても、「バリバリ」って副詞、なんかこダサいね。もうちょっと洒落た表現を考えたいものだ。
「産んだのはお前」のおっさんがセンテンススプリングの餌食になった
朝に上げたブログで偉そうなおっさんのひとりとして紹介した、「産んだのはお前」発言の山田宏氏のスキャンダルを「週刊文春WEB」がスクープしていた。
離婚訴訟を起こされている山田氏の奥さんが、取材で過去の不倫問題について語ったそうだ。
ここのところ、「不倫」や「愛人」というワードは、とてつもない威力をもっている。しかもそのうえ「隠し子」というワードまで。これは、燃えないわけがない鉄壁の布陣だ。
もちろん、保育園が不足している問題と、与党の参院選の候補者の素行は直結するようなものじゃない。個人的には、ちゃんと政治家としての職務をまっとうしてくれれば、私生活の清廉性についてわざわざあげつらう必要はないと思う。とはいえ「偉そうなこと言っといてなんやねん」と思ってしまうのはしかたがないことだろう。
しかも「山田氏は、妻との間にも三人の子供がいるが、保育園に通った時期も含め、子育てにほとんど携わらなかった」そうだ。これは、離婚訴訟を起こされている側の奥さんの発言ということを踏まえると、むやみに信じることはできないけれど、少なくとも愛人の間に生まれた子どもに対しては、認知して金銭的な支援(って言い方は適切じゃない気がするけど)をするだけだったんじゃないのかな、と思ってしまう。
こうなると、山田氏の「産んだのはお前。親の責任」っていう発言の親って、母親のことだけを指している可能性が濃厚。というか、少しでも「自分は言えた義理じゃないけど……」って後ろめたさを感じたんだろうか。思い当たる節があるがあるなら、もうちょっと慎重に言葉を選ぶはずなのになあ。
やっぱりおっさんは謎である。
親愛なる日本のおっさんたちへ
おっさんって、謎だ。
20歳くらいの巫女さんに「自民党は好きじゃない」と言われて「巫女さんのくせに」と発言。
ソープ通いを摘発されそうになって「(自分は)潔癖な性格なのでソープには行きません。嫁が東大卒の才媛なことが証拠です」(実際はもっとひどいことが書いてあった)と、文書で否定。
「保育園落ちた死ね」ブログをめぐって、「(子どもを)産んだあなたの責任」という旨の発言。
「女性蔑視だ!」と騒がれているけれど、過激に見える発言を切り取られてしまっているから、必要以上に責められているようだ。きちんと精査して読むと、大西議員の発言は、ちょっとしたウケ狙いだったんだろうし、山田氏は保育園問題について、母親の責任を問いたかったわけではなく、保育園落ちたブログを野党批判のための材料にしたかっただけみたいだとわかる。(長崎議員は、ただただひどかったけど、自分の評価を落としたくない一心なんだろう)。でも、たとえ意識的に女性を傷つけようとしたわけじゃないとしても、どこかで「女には偉そうにしてもいい」と思っているから、こういう言葉になって出てくるんじゃなかろうか。
おっさんが謎だと思うのは、どうして言葉の選び方をもうちょっと、考えられないのかなあということ。男女差別の問題において、言葉はとってもセンシティブだ。たとえば「看護婦」じゃなくて「看護師」、「スチュワーデス」じゃなくて「キャビンアテンダント」、ついには「ビジネスマン」じゃなくて「ビジネスパーソン」。呼称の変更は男女差別が直接的な原因じゃないけれど、言葉が与えるイメージはやはり大きい。女性特有の呼称が、ジェンダーによる差別を助長していた可能性はある。
仮にも政治に関わる人たちなのだから、それくらいは配慮してほしいものである。心のなかでどんなに女をバカにしていても構わないから、せめて自分の発言くらいには気を遣ったほうがいい。そのひとことで、踏みにじられる女性だっているんだから。私もね、心のなかではすさまじくおっさんを蔑視してる。でも、なるべく紳士的な言葉で綴っているでしょう?
個人的な意見だけれど、日本のおっさんの多くが「女には偉そうにしてもいい」と思っているような気がする。というかおっさんはみんな「おっさんは偉そうにしてもいい」と思っているんじゃなかろうか。
だからこういうことを言っちゃうんだろうな。
でもおっさんが偉そうにしちゃうのはしょうがないことなのかもしれない。だって、たぶん、おっさんたちが若者だったころのおっさんたちは、きっともっと過激で偉そうな発言を平気でしていただろうから。偉そうなおっさんたちの背中を見続け、ようやく自分が偉そうにできる番だと思ったら、そこにはインターネットがあった。
たぶん、10年前なら「巫女のくせに」も「ソープは不潔」も「産んだのはお前」も、ここまで大きな話題にならなかったと思う。簡単に情報発信できる時代になったいま、たったひとことの失言が一気に日本中に広まる。でも、インターネットの影響力をきちんと理解できていないおっさんたちは、まさかこんな事態になるとは思わずに偉そうなことを言っちゃったんだよね?
おっさんの心ない発言は女性の気持ちを踏みにじる。でもそれを厳しく批判されることで、図太い神経を持ったおっさんたちも、自分の発言を悔い心を痛めているはず。こんな悲しい連鎖を断ち切るために、おっさんたちにはそろそろ口をつぐんでもらいたい。「おっさんは偉そうにしてもいい」という考えを変えるのは、おっさんになったいまとなっては難しいはずだから。心のなかでどんなに偉そうにしてもいいから、とにかく寡黙であれ。
偉そうなこと言うだけのおっさんより、背中で語るおっさんの方がずっとカッコいいぞ。
今年度の新卒フリーランスはファーストペンギンになりうるか
新年度が始まって、10日あまりが過ぎた。今年度から、新卒フリーランスとして働き始めた人たちは、どう過ごしているだろうか。
彼らと同い年のころ、私は"自分のやりたいこと"なんて、まったく見つかっていなかった。就職活動中も、自分が社会に出るなんて実感も覚悟もなくて、惰性で日々を過ごしていた。それに引き換え、12月1日*1になったとたん、人が変わったかのように自己分析だ業界研究だなんだ言い出した同級生に違和感と気持ち悪さを感じていた。でも、卒業が間近に迫っているなかで「就活しない」という選択肢はない。しぶしぶ説明会やら面接やらに足を運んだ。
結局、就活はぜんぜんうまくいかなかったし、心から入りたいと思える会社には出会えなかった。それでも、ただ流されるままに内定を決めた。最終的に「やっぱ、やめた!」と言って逃げ出したんだけれど。だから、大学を卒業するまでに"自分のやりたいこと"をきちんと見つけて、しかもそれで食べていけるくらいの実績を積んでいることは、心から「すごい」と思う。さらに「自分はこれをやりたいから就職しない」と声を大にして言えるところも、年下なのにこんなにしっかりしているなんて……と、自分の未熟さに呆れる。
自分がフリーランスで働いているせいもあるけれど、彼らのような存在はぜひ応援したいと思う。私の力など微々たるものだけれど、せめてブログのPVくらいには貢献したい。
働き方が多様化していくのは、単純にいいことだと思う。選択肢が増えれば、誰もが自分に合った働き方ができるはずだから。とはいえ、新卒フリーランスという働き方が一般的ではないのはたしかだ。そもそも、お年を召した世代の方々なんて「フリーランス」という言葉の定義すら知らないのではないか。
そして、新卒フリーランスという道は明らかにハイリスクだと思う。まず、フリーランスという働き方は、基本的に失敗が許されない。企業がこれから一人前に育てていくことを見越して採用する新卒の新入社員と違って、フリーランスは即戦力でなければ意味がないし、期待されている成果を上げなければ契約を切られるなんてザラだ。それでも、フリーランスで生計を立てていくなら、どこかの企業と契約して「お仕事」をいただかなければならない。
新卒の新入社員なら、失敗しても経験のひとつだと容認される一方、新卒フリーランスは、期待していたより「おもしろくない」「結果につながらない」と判断されたら使ってもらえなくなる。22歳やそこらで、そんなシビアな世界で生きていかなければならないのは、なかなかしんどいことだと思う。しかも、失敗できないと思うとどうしても手堅くなりがちだ。失敗から多くを学ぶということは往々にしてあるので、新卒で企業に入社した同期たちが、なんだかんだ会社が尻拭いをしてくれる環境のなかで挑戦を繰り返した結果、10年後には大きく差がついていたということにもなりかねない。
そして、個人のスキルや能力にかかわらず、新卒はたいてい「使えない」。どんなに優秀な人でも、仕事の段取りの仕方とか、問題が起こったときの対処法とか、そういう引き出しがまったくもって皆無だからだ。企業に入れば、先輩やら上司やらが指導してくれるけれど、フリーランスだとそれは難しい。対等な関係で契約している以上、仕事をいただいている企業や人から、何かを教わることを期待してはいけない。教える必要があるなら、わざわざフリーランスは使わない。
でも、ハイリスクな世界に率先して飛び込むファーストペンギン*2は、それだけ大きな利益を得るという。単に収入の面だけで考えれば、一定の年代まではフリーランスの方が有利かもしれない。とはいえ、リスクに見合うだけのリターンを得るには、フリーランスの主たる財源であるスモールビジネスだけでは立ち行かない。
新卒フリーランスがこれからどうやって活躍していくのか、社会人経験たった3年でフリーランスになった私にとっては、自戒もこめて目が離せない。
ポエム期の自意識の気持ち悪さは異常
私の人生には、たまにポエム期が訪れる。
ポエム期は、うつ期の亜種みたいなもので、とにかく気持ち悪いポエムを毎日量産してしまう時期のことだ。
ちょうど、前回のポエム期(2年前くらい)に更新していたブログを久しぶりに見てみたら、その気持ち悪さに驚いた。とりあえず、自意識がすごい。パンパンに膨れ上がっている。
実は、ポエム期が終わったころに、恥ずかしくなってすべて非公開にしたのだが、いまになって読み返してみると、気持ち悪すぎてむしろ笑えると思い、ふたたび公開してみた。完全に血迷っている。
(ここで読めるよ)
前々回のポエム期には、ツイッターに鬱イート(鬱なツイートのこと)を垂れ流していたんだけど、アカウントを削除してしまったことが悔やまれる。大学生のファッションメンヘラのポエムなんて、気持ち悪すぎておもしろいに決まってるのに!
せっかくだから、特に気持ち悪いポエムをいくつか載せておく。いろいろな方面からドン引きされそうだけど、まあ気にしない。めちゃくちゃ気持ち悪いけど、実際に自分が感じていたことだから。めちゃくちゃ気持ち悪いけど。
ごめんなさい
ごめんなさい
と繰り返しながら
高層ビルの陰を逃げるように歩いた。
……なにがあったの?
指名手配犯の手記みたいなテンションだけど、「ごめんなさい」の理由は、たぶん彼氏とケンカしたとか、親に怒られたとか、そんなもん。
孤独を飼い慣らしすぎて、手放すことができなくなった。
孤独を飼い慣らすってなに? は? キモい、キモすぎる。自分で自分に引く。イタい。そんなもん飼うくらいなら、保健所の犬や猫を引き取るべき。
ちょっと思いつめて
スクランブル交差点で号泣するような
246の歩道橋で大声を出すような
そんな映画みたいな人生がいい。
たぶん、生まれるところからやりなおした方がいい。誰もがみんな、それぞれの人生の主役なんだ! そのままだって、映画なんかよりよっぽど面白いんだぞ!
スクランブル交差点で号泣するのも、246の歩道橋で大声を出すのも迷惑だからやめてください。
死にたくなるほど、気持ち悪くて恥ずかしい。恐ろしいのは、もしかしたらこのブログも、何年後かに読んだとき、吐き気をもよおしてしまうのではないかということ。ちなみに、過去の経験から、なるべく気持ち悪くならないように気をつけているつもりではある。
そして、もう二度と、私の人生にポエム期が訪れないことを願うばかりだ。
カッコいいは疲れる、カワイイは作れる
出典:2016年3月号|sweet(スウィート)│宝島社の女性ファッション誌
ニッポンに「カワイイ」が戻ってきた……らしい。
日本一(かどうかは知らないけど)のファッションECをつくった男と付き合ってるサエコが言ってるんだから間違いないだろう。(実際は、サエコが表紙の雑誌に書いてあっただけ)
たしかにここ数年、女子のトレンドは「カッコいい」全盛期だった気がする。
数年前までずっと「カワイイは正義」って言われてきたのに、徐々に「カッコいい」が幅を利かせてきて、いまや「カッコいいが最高の褒め言葉」ってとこまできてる。
でも、もしかしたらそれは当然のことだったのかもしれない。「カワイイ」という言葉の汎用性が高くなりすぎて、ダサくても、キモくても、もはやなんでもかんでも「カワイイ」と言われるんだもの。
だから、「カワイイ」と言われることに価値がなくなってしまったのではないだろうか。
ところで、「カッコいい」という言葉には、センスがいいとか、仕事がデキるとか、そういう意味が含まれている気がする。ただ、好きな服を着ているだけではいけなくなってしまった。
「カッコいい」と言われるには、着る服だけじゃなく、どんなものを部屋に飾るか、どんなところでご飯を食べるか、どんなふうに仕事をしているか……。いわゆる「ライフスタイル」全般に気を配らなければならない。
しかも、誰かの真似をするのは「カッコよくなく」て、「自分らしさ」がないとダメらしい。自分で自分の好きなものを選びとった結果、こんなにオシャレなライフスタイルになった……というのが「カッコいい」のだ。
でも、自分の好きなものが、みんなが思う「カッコいい」にハマらなかった場合、それは「カッコよくない」し、「ダサい」と言われてしまう。だから結局、自分が本当にいいと思ったものを選び取れなくなってしまった。
そう思うと「カワイイ」はもっと寛容だった。どんなものでも、自分の「好き」を許してくれる懐の深さがあった。しかも「カワイイは作れる」のだ。
「カッコいい」を追い求めるのは、とても、疲れる。本当にニッポンに「カワイイ」が戻ってくるのなら、私は全面的に支持したいと思う。
ババロア王子と私のバレンタインの記録
画像出典:Weheartit
今週のお題「バレンタインデー」
バレンタインデーに、初めて男の子にお菓子を作ったのは高校2年生のとき。
小学生のころから過激なフェミニストだった私は、男のためにお菓子作りをするなんて「けしからん」ことだと思っていた。
そんな信条が崩れ去ったのは、なんのことはない、当時の彼氏がめちゃくちゃ好きだったからである。
彼はチョコレートが食べられないという特異な人で、リクエストされたのはプリンとババロアというこれまた変わったメニューだった。
プリンはまだ、なんとなくいけそうな予感がしたけど、正直、ババロアに関しては、一体どんな代物なのか想像もつかなかった。たぶんババロアって言葉を口にしたの人生で3回目くらいだったと思う。
かくして、ほとんど生まれて初めてくらいのレベルでキッチンに立ち、プリンとババロアを作った。奇跡的に、家庭科の調理実習でヨーグルトババロアを作った後だったので、レシピはそのまま転用させていただいた。
出来は上々。いや、かなりおいしかった。(レシピどおりに作ることが何より大切だって学んだよ)肝心の彼の反応もよくて、私はとても満ち足りた気持ちになった。
結果、わたしのなかのフェミニズムは終焉を迎えた。過激派フェミニストも、イケメンの前では無力だったのである。完敗。
でも、そんな彼とは、二回目のバレンタインを迎えることなくお別れしてしまった。(めっちゃ泣いた)
そして月日がめぐって、5年後の2014年のバレンタイン。
なんと、またあのババロア王子にお菓子を献上することになった。(よりを戻した)
しかし、そのとき、彼はもはやババロア王子ではなかった。なんか、チョコ、食べられるようになってた。むしろ好きとか言ってた。
おいおい、この5年の間に何があったんだよ!
結局、その年は私が多忙すぎて(卒業公演の稽古の真っ最中だった)、市販のやつで済ませてしまったのだが。(ちなみにすごい不評だった)
市販のじゃやっぱり、がっかりさせてしまったようなので、次の年は汚名返上のために久しぶりにキッチンに立った。
しかし、私のお菓子作りのレパートリーはまったくもって変わっていなかったので、結局またもやプリンとババロア。(まあまあ好評だった)
そして、2016年、性懲りもなく、今年もババロア作るぞー!って息巻いてたら(ここへ来てババロアへの一本化を検討した理由は、プリンのカラメルソースを作るのが苦手だからである)、「チョコを溶かしてくまの型にいれて固めたやつでいい」とのことだったので、大人になるって、どんどん欲がなくなっていくことなのかなーとしみじみ思った。
17歳だったババロア王子は、もう、溶かして固めたチョコでいい25歳の大人の男なのだ。