せなどすブログ

どうでもいいことしか書いてありません。

駅のホームでサバサンド

今は昔、サンドウィッチという名の伯爵がいました。

サンドウィッチ伯爵は「三度の飯より賭け事が好き!」なギャンブル狂で、寝る間も惜しんでポーカーに興じていたとか。

とはいえ、生きているからには、どうしてもお腹が空くわけで。そんなとき「片手にカードを持ったまま食べられる食事はないものか」と思案した結果、生まれたのがサンドイッチだったのです。

子どものころ、そんなマユツバな話を、お菓子の袋の裏側で読んだ。でも、幼心には「なるほど合点がいく」話だったようで、ずっと記憶の片隅に残っていた。ただ、ちょっと調べてみたところ、マユツバを通り越して、どうやら真っ赤なウソらしい。

エピソードの真偽は置いておいて、サンドウィッチ伯爵の「ほかのことをしながら食事をする」というスタイルに、私はものすごくシンパシーを感じている。

なぜなら私は「食事そのものを目的とした食事」があまり好きではないのだ。いや、好きではないというより、違和感があると言ったほうが近いかもしれない。

誰かと話しながらとかテレビを見ながらというように、ほかに何かやることがないと嫌なのだ。あまりにお腹が減っているときは別として、私にとって食事は“おまけ”要素が強い。

昨日は、護国寺から表参道、そして最後は羽田空港と、半日で東京を縦断しなければならず、ゆっくり腰を据えて食事をする時間がなかった。

それで仕方なく、駅のホームや乗り換えの間に「移動しながら食事」をしたのだけれど、これがなんだかしっくりきたのである。会話をしながらとかテレビを見ながらと同じくらい、自然な感じがした。

もちろん選んだのは「ながら」でも食べやすいサンドイッチ。ちなみにちょっといいサバサンド。

お行儀はよくないかもしれないけれど。サンドイッチ片手に移動しながら食事。なかなか悪くない。

年相応になりたい、なれない

年齢というものはあまり意識していなくても、ときに重くのしかかってくるものだ。

最近、スーツを着て仕事に出かけることが増えた。以前は、堅苦しい格好をしたくないからこそ、フリーランスで働いていると思っていたのに。

私は童顔なので、どこへ行っても実年齢より若く見られる。ついこの間までは、困ったふりをしながら内心よろこんでいたのに、28歳を目前にして、とても居心地の悪い気持ちになるようになった。

それに「幼く見える」ということは「なめられやすい」ということにつながる。まさに今日、そういうことがあったのだが、取材に行った舞台挨拶で映画会社のスタッフにひどく横柄な態度を取られた。私の後ろに並んでいた、中年男性の記者には丁寧に接していたのにだ。

これまでは、そういう顔立ちに生まれてしまったのだから、無理に年相応に見せる必要もないか、と思っていた。他人からどう見られているかより、自分に似合うメイクや服装をすることのほうが、価値のあることなのだと。

ただ、最近はそんなことも言っていられなくなった。「30歳」という数字が手が届くところに見えてきたからだ。

30歳という年齢に悪いイメージはない。「男は30代から」という言葉をよく聞くが、女だってそうだ。むしろ、30歳という節目から、魅力的な人生が始まるのではないかと思っている。

でもそこには「大人として」という前置きが入る。いろいろな経験を積んで成熟してきたからこそ手に入る人生の楽しさ。きっと、その楽しさを謳歌するためには、外見の成熟度だって必要だ。見た目が子どもじゃ、不都合が多い。大人のための素敵な場所で、浮いて見えてしまうのも嫌だ。

だからまず、仕事のときはスーツを着ることにした。就活生に見えないように、なるべくセンスのいいものを。今のところ、うまく機能していると思う。

それと、高校生のときからずっと変わらず着けているカラコンも、いつか卒業しなきゃなと考えている。ただ、手始めに黒目を強調しすぎないものに変えてみたけど、鏡を見るたびテンションが下がってしまうので、3日で以前のものに戻した。

見た目年齢が実年齢に追いつくまで、まだ少し時間がかかりそうである。

赤ちゃんひとり分以上太ったから、私もうお母さんじゃない?

久しぶりに体重計に乗ったら、4kgも太ってた。

いや、なんとなく気づいてはいたんだよ? なんか最近、着るもの全部きついなって。心なしか、顔も一回り大きくなった気がするなって。

でもちょっとくらい太ってもしょうがないじゃない。仕事忙しいもん。頑張ってるもん。

ただ、夜中まで働くからといって、毎日パーカとスウェットみたいな、ゆるゆるした格好をするようになったのがよくなかった。

春だし、出会いの季節だし。久しぶりにスカートでも履いて出かけようかしらと思ったら……まーあ、入らない。

太ももとかぱつぱつだし、そこから生えてるふくらはぎも太めのフランスパンかな? って感じだし。

さすがにね、これ以上はもう目をつむれないな、と。

たぶん半年ぶりくらいに体重計乗った。

案の定増えてた。4kgって……。だいぶおっきな赤ちゃんより重いじゃん。

同級生たちがお腹に新たな命を宿している間に、私は自分自身の体積を増やしてただけって、ちょっと悲しすぎない? 涙出てきた。

ということで、ダイエットを、する。

ダイエットは、留学先で毎晩深夜にクリームソースたっぷりパスタどか食いして激太りしたとき以来。7年ぶり2回目!

運動はまったくする気がないので、食事制限だけで頑張るぞい。

脳みそがバグった午前10時

原稿やる気がまったく出なくて、うとうとしながら夜を明かした。あたりが明るくなってきて「さすがにやらな」とベットから這い出す。いつも〆切ギリギリになってから(ほとんどの場合は越えてからだが)執筆を始めるのは、ひとえに怠惰な性格のせいだが、余裕をこいてダラダラ書くよりも、追いつめられてから集中力を発揮して書いた方が、意外と出来がよかったりする。

今日も2時間くらい「ぶわっ」と(なんとなく私のなかでの効果音はこれ)集中して見開き2ページの3分の2くらいを一気に書き上げた。と、このときいつものチカチカに襲われた。チカチカというのは正式名称「閃輝暗点」のこと。芥川龍之介が遺作『歯車』で書いていたそれである。

目の前にチカチカと光の残像のようなものが広がっていき、徐々に視界が奪われていく。30分から1時間くらいその状況が続いたあと、チカチカが引いていくと同時にものすごい頭痛に見舞われるのだ。つまりこのチカチカは偏頭痛の前兆現象で、私は長年この症状に悩まされている。

ただ、もはや慢性的なものだし、チカチカが始まったときにロキソニンなり頭痛薬を飲んでおけば、偏頭痛の痛みはそれほどでもない。困るのは、チカチカしている間は目の前がよく見えないため、仕事にならないということだ。

今日のように、いい感じで集中できているときにチカチカし出すこともよくあるので、それはすごく嫌だ。このメカニズムは簡単で、このチカチカは医学的に、極度の緊張状態がふっとゆるんだときに現れるものらしい。だから集中力がピークに達したときにこそ起きやすいのだろう。

いつもなら「仕方ない」と思ってすぐに中断するのだが、今日は集中を途切れさせるのがもったいない気がして(〆切はとっくに過ぎてたうえに、最終デッドが目前に迫っていたということもあるが)ロキソニンをきめてから、しばらくあがいて執筆を続けた。

多少スピードは落ちたものの、めずらしく筆がのっていて、チカチカした視界のなかでもわりとスムーズに書き進めることができた。しかし、9割方書き終えたくらいのところで、いきなりふっと意識が飛んだ。

はっとなって戻ってきたとき、驚いて時計を見ると午前10時。気を失っていたのはほんの10分足らずのようだが、あと2時間以内に原稿を送らなければマズい。幸いなことに本文はあらかた書き終えていたため、一度読み直して推敲してみることにした。

しかしはじめの一文を読んだとき、私は息が止まるかと思ったくらい驚愕してしまった。

そこに書かれているその文章を、自分で書いた覚えがまったくなかったのだ。

さっきまでキーボードを打って原稿を進めていた記憶はある。手がけている内容にも相違はない。ただ、その一文一文は書いた覚えがまったくないのだ。

恐る恐る読み進めてみると、文章の雰囲気から自分が書いたものだとは思う。完成度も高かったが、まったく身に覚えがない。かと言って、こういう内容を書いたはずだという代わりの記憶があるわけでもない。

「怖い」

このとき感じたのは底知れない恐怖だった。得たいの知れないものに対峙しているような恐ろしさ。

自分の頭はおかしくなってしまったんじゃないかと思った。

そして事実そうだったようだ。

何度か読み返しているうちに、徐々に記憶が「馴染んで」きたのだ。思い出すというよりは、だんだん「そういえばこれは自分が書いた文章だった」と腑に落ちていくという感覚。

記憶が馴染みきったとき、これはたぶん脳みそがバグったということだろうなと思った。

目の錯覚にはじまり、多重人格だとかADHDだとか。いろいろな障害が起きる脳の機能が、たまにフリーズしたりバグったりするのは、別に不思議なことではないだろう。

でも、自分の記憶が曖昧になって、夢なのか現実なのかわからなくなったあの瞬間の恐怖はすさまじいものだった。

閃輝暗点や偏頭痛が関係あるのかはわからないが、もう少し自分の脳みそを大切にいたわっていこうと思う。

歯車―他二篇 (岩波文庫 緑 70-6)

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久しぶりに観た『陰陽師』が死ぬほどエロい映画だった

羽生くんが安倍晴明を演じて金メダルをとったということで、Amazonプライムで映画『陰陽師』を鑑賞。たぶん、10年ぶり3回め、とか。ふと公開年を見たらなんと2001年。もう、20年も前の映画なのかと、なんだか感慨深い。

でも、まったく色褪せることなく、というかむしろ、最近観たいろいろな映画のなかでも群を抜くおもしろさだった。

まず、キャストの豪華さは筆舌に尽くしがたい。「野村萬斎 VS 真田広之」というだけで夢のようなキャスティング。今じゃ野村萬斎ひとりに対して、長谷川博己やら竹野内豊やら石原さとみやら、日本のそうそうたる俳優陣が寄ってたかって襲いかかる始末なのにね。

後半は真田広之の独壇場。沼で骸骨を洗ってるシーンなんて背筋が寒くなるほどに、えも言われぬ迫力があった。真田広之は絶対、悪役が、いい。エロさがすごいの。おでこに刺さった矢を、めりめり頭のなかに押し込んで、口から取り出すところとか、正直ちょっとギャグなのかなって感じなのに、真田広之がやると、大マジ。気を抜くと多分笑っちゃうんだけど、広之の演技が鬼気迫ってるから普通にすげえ怖い。あと、そこはかとなくエロい。

かと言って野村萬斎も負けず劣らずエロくて。悪役の真田広之が、野太くかつ仰々しく術を唱えてるのに対して、野村萬斎は優しくささやくだけ。でもこの息遣いが非常にエロい。小泉今日子の背中に針を差して、それを口にくわえながら術を唱えるシーンなんて、本当にけしからなかった。小泉今日子が呪いに身悶えする演技も含めて、エロでしかなかった。こっちがおっぱじまっちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしてるのに、顔色ひとつ変えず、超真剣な眼差しでささやく萬斎が高貴すぎて逆にエロい。

あと伊藤英明。初々しくてエロい。演技はめちゃくちゃ下手なんだけど、この好青年が20年後には、生徒を殺しまくるサイコパスの役とか怪演しちゃうんだと思うと、移ろいゆくものの儚さを感じてエロい。実際続けて観た『陰陽師Ⅱ』では、英明の初々しさがだいぶ影を潜めてしまっていて、成長がうれしい反面ちょっとがっかりもした。

それから、出番は少ないけど萩原聖人のエロさもよかった。なんでだろう、萩原聖人ってエロさとは無縁のような涼しげな顔立ちなのになんでだかエロい。常に孤独を携えているように見える。エロい。幸薄い役とか途中で死ぬ役とかやると、寂しさが際立ってよりエロいんだけど、『陰陽師』では非業の死を遂げた悪霊とかいうハマり役だからもう存在がエロい。

最初から最後まで、抜け目なくエロい。なんだか、ものすごい映画を観てしまったなって。エロい、エロい言ってると下品に聞こえるかもしれないけど、実際は「色っぽい」とか「色気がある」っていう上品な表現の方が近い気がする。でも映画を観ているときの臨場感や胸の高鳴りは、やっぱり「エロい」の方がしっくりくるのだ。

これまで2回観てきたときも「おもしろい」とは思っていたけど「エロくてヤバい」って思ったのは今回が初めて。この映画の真骨頂は大人にならないとわからなかったのだな。とても素晴らしかった。またすぐ観たいような、またしばらく観たくないような、そんな感じ。

あとぜんぜん関係ないんだけど、萬斎が天皇の子どもの呪いを解くとき、口のなかから悪霊みたいなのが出てきて、それを小泉今日子がまた口から吸い取ってたんだけど、呪いってあれ、経口摂取なんだね。それだけちょっと、なんだかなって。

映画「陰陽師」

映画「陰陽師」

 

便利なものを駆使できると気持ちいい

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朝から晩まで取材漬けの日があった。4つの現場を文字通り走り回って、久しぶりに「私、働いてる!」と感じられた1日だった。どうしても疲れが出ちゃうから、いわゆる「パフォーマンス」ってやつを考えるとあんまりよくないのかもしれないけど、こんな風にバタバタしているのはわりかし好きだ。

ただひとつ困ったのが、前日急遽決まった4件目の取材と、もともと決まっていた3件目の取材の間の移動時間がたった1時間しかなかったこと。しかも世田谷線松原駅から六本木まで移動しなければならないっていう。

電車じゃギリギリ間に合わなくて、タクシーを使うことにした。でも、松原って住宅街のど真ん中だから、絶対つかまえられないだろうな、と。

で、はじめて使ってみたのがアプリ「全国タクシー」の配車予約。まず、迎えに来てもらう日時を決めたら、マップ上で乗車場所と降車場所をピンポイントで指定。駅とかわかりやすい建物の方がいいのかなって一瞬思ったけど、時間がもったいないからドア・ツー・ドアになるようにした。最後に支払い方法を選択したら予約完了! ここまでかかった時間はたった1分たらず。

あまりに簡単すぎたから「ほんとに来てくれるのかい……?」って不安になったんだけど、当日取材が終わって出てきたら、建物の目の前にタクシーが止まってて。めちゃくちゃほっとした。

しかも、ちょっと早めに終わったから予定より5分くらい早く出て行ったんだよね。時間に余裕持ってきてくれるのほんと、ありがたい。

予約のときに行き先は指定してあるから、乗り込んだらすぐに出発。そのうえ運転手さんに「めっちゃ急いでて……!」と伝えたら、最速で行けるルートを考えてくれて。目的地に着いたら、ちゃんと指定どおり取材先のビルの目の前に降ろしてくれた。

ネット決済にしてたから、その場で支払いをする必要もなかったし。いやあ、効率的。おかげで、取材にはばっちり間に合った。ていうか、なんなら思ってたよりぜんぜん早く着いた。

タクシーに乗るときっていつも「なかなかつかまらない」「行き先をうまく伝えられない」「カード使えなかったら現金足りるかわかんない」っていう3拍子で困るんだけど、これなら全部解消できちゃう! すごい。

文明の利器というかなんというか。こういう便利なサービスを使いこなしてる自分ってなんだかスマートな感じがして、いい。

正直、1日4件もこなせるかどうか不安だったけど、強い味方を手に入れたから今後も安心して仕事を受けられそう。ありがたや。

彼と私のお雑煮抗争

今年は久しぶりに実家のお雑煮を食べた。お雑煮は、地域ごとに味や具材が違うのはもちろん、その家ごとにさまざまな特徴があるものだ。私はお雑煮って、家庭の雰囲気だとか価値観だとかを象徴するような食べ物なんじゃないかと思っている。

何年か前の元旦、私は彼氏の実家にいた。お雑煮を作ってあげる約束をしていたからだ。彼の両親は長いこと別居していてお父さんとふたり暮らしだったのだが、内縁の妻と一緒に会員制のゴルフリゾートに泊まるとかで留守だった。

その話を聞いたとき、複雑な事情を抱えた彼とは違い、いたって普通の家庭で育った私は、「家族でお雑煮を食べる」という、いたって普通のお正月イベントを彼に体験してもらいたいと思ったのだ。

普段まったく料理をしない私が「お雑煮作るよ」と提案したとき、彼は本当にうれしそうだった。「材料は買っておくから」と言ってくれたので、当日は手ぶらで彼の家に向かった。

しかし、彼が用意してくれた材料を見たとき、私は「え……?」と困惑してしまった。袋の中にコンビニで売っている煮物のパウチが入っていたからだ。しかも、人参や大根といった生の野菜はない。

おそるおそる「え、野菜は……?」と訪ねると、彼は「これ、そのまま使えばいいじゃん」とそのパウチを取り出した。そのときの衝撃を、私は忘れることができない。

うちのお雑煮は、一度煮た人参と大根を花の形に型抜きし、焼いた餅と出汁が入った器にあとから加えるという、家庭料理とは思えないほど丹精な方法で作られている。さらに、出汁に油が浮いたり色が付いたりしないよう、鶏肉やしいたけは別で煮ているのだ。

でもこれはひとえに、うちの母親の手先が器用で、かつ伝統的な年中行事を丁寧にこなそうとするタイプの人間だからにほかならない。私は母親のしとやかさに乗っかっているだけで、本来はガサツでズボラな人間なのだ。だから今考えるとまさにパウチこそがお似合いなのだが、そのときはどうしても「そんなの使ったらお雑煮じゃないじゃん」と思ってしまった。

しかも何を思ったか、そっくりそのままのセリフを彼に向かって言ってしまったのだ。一瞬で凍りついた空気に、私は自分のデリカシーのなさを呪った。

「いや、うちのお雑煮ってすごく手が込んでてさ。人参とか大根とかお花の形に型抜くんだよね」。実際に家から持参していた型抜きを取り出して説明したけれど、取り繕おうとすればするほど、体感温度はどんどん下がっていく。

気まずい沈黙のあと、彼は「そんなめんどくさいことする必要なくない?」と言い放ち、自分でお雑煮を作り始めた。

正直、普段から自分で食事の支度をしている彼と、専業主婦の母親が毎日欠かさず手料理を作ってくれる私とを比べたら、彼の方が断然手慣れている。野菜はパウチの煮物で、出汁はインスタント。鶏肉も一緒くたに煮ていたが、キッチンの中でテキパキと動く姿はとても様になっていた。

一方、私は何もできずに、ただぼーっと突っ立っているだけだった。何か手伝おうかとも思ったが、彼は機嫌が悪くなると私の存在を無視するので、ただただ見ているしかなかった。

あのときの私は、自分の「うちのお雑煮」が彼にとっても「うちのお雑煮」になればいいと思っていた。でも今考えると、私にとっての「うちのお雑煮」が、母親が手間ひまをかけて作った一品であるのと同じように、彼にとってはパウチの煮物をインスタントの出汁で煮たものが「うちのお雑煮」で、それだって家庭の味なのだ。

彼が私の分のお雑煮も用意してくれたので、ふたりで並んで食べた。それはとてもおいしかったけど、やっぱり「これはお雑煮じゃない」と思った。ただの友だちが作ってくれたお雑煮なら、とくに引っかかることはなかったと思う。

でも、私は彼と結婚したかった。家族になりたかった。

だからこそ「うちのお雑煮」を「めんどくさい」と否定されたことで「この人とは無理かもしれない」という気持ちが芽生えてしまったのだ。

そのお正月から2年と少し付き合ったものの、結局彼とは別れてしまった。たくさんのすれ違いや噛み合わなさがあってのことだけど、このお雑煮抗争で生まれたひずみは意外と根深かった気がする。

でもたとえあの日、私が何も言わずにパウチの煮物を使っていても、彼が型抜きをめんどくさいと切り捨てなくても、結果は変わらなかったとも思う。

「うちのお雑煮も、人参が花の形だった」という人とは、なんとなく生まれ育った家庭の雰囲気とか価値観が近いような気がする。

そういう人と出会えたら、今度こそ結婚なんて話になるのかな。実家で花の形の人参が浮かんだお雑煮を食べながら、そんなことを思った2018年の元旦だった。